2007/11/14 作成

今ある自分

テーマ

昔は今の鏡であり、昔があったからこそ今がある。

好きな言葉

くよくよするな!山より大きいクマは、出~へん

<はじめに>

第一人生期、太平洋戦争の真っ盛り親父(父)が戦争で戦死そして母が死に、2人の姉がも亡くなり、6人いた家族が3女の姉と二人きりになった不運な人生期から、明るい希望が持てた成長の第二人生期、そして安心・安定した生活を送っている現在の第三人生期に分けて、綴っています。

これは自分一生の記録そして、お世話になった方々に感謝する意味で作成をしています。

<第一 人生期>

昭和17年生まれ、太平洋戦争の真っ盛り、長男として生まれ、私が生まれた時には既に、1~2番目の2人の姉が栄養失調で亡くなり、母と子3人になってしまった。

原因は言うまでもなく当時の状況が判る人は理解できるが、今から思えば想像も出来ない時代であった事は確かである。

親父(父)が戦争に駆り出され当時は、私が1~3歳で判らなかって物事が判った時、聞かされた事は南方で戦死したと言うだけ、遺体も無く、遺品も無くなにも解らない自分には「あ~そう~」と、あまり悲しみも感じなかったと・・はっきりした記憶すら無いが、そのように感じていたのではないかと、思い出されます。

 

当時を振り返り薄らうすら思い出されるのは、昭和20年当時日本が第二次太平洋戦争で負け、敗戦国になり、ただ当時の状況はあまり記憶がないまま終戦、何年か後にその状況が判ってきた様に思う。

ただ、当時の生活は食べる物が全く無く、米穀店に行って 「乾パン」 を配給で頂くか、母親が小麦粉でよく母が蒸しパンを作ってくれて温かい手作りのパンを食べたのが今でも忘れられない。

充分な砂糖がなくサッカリンの鼻につく臭いがしていたが、当時は美味しく食べていた記憶があります。

そのように父親が戦死して母子3人がその厳しい情勢の中、生活すると言う事が当時の状況から、如何に過酷であったかが想像でき、そして母親は自分の食べる物を食べず、子に与え昼は日通の交換手、夜は遅くまで内職のお針仕事を続け、それが原因だったのか?で結局過労で、死んでしまったのでした。

昭和27年ですから私が10歳、姉が12歳、連れられて行った暗い霊安室の片隅に母親が寝かされていた記憶があり、その時廻りの状況から、何が起こったかは判っていたと思うが、ただ、ぼんやりとして、これから起こる事の重大さは解っていなかった様にも思う。

6人いた家族が三女の姉と私とで、2人きりになり、幼い2人にはどうする事も出来ず母親の実家(祖父母)に引き取られたが、同じくして母親の妹の子つまり、私から見て従姉弟も同様な戦争孤児の境遇で既に、祖父母に引き取られていたのである。

その為私たち姉弟は、更にパンの製造業を営んでいた母親の妹(叔母・伯父)に預けられたのでした。

 

預けられた先の叔母夫婦は、パンの製造業を始めたばかりでその時の状態は、私たちを引き取る余裕さえ無かったが、祖父母からの絶ってのお願いで、やむ得なく預かって頂く事になったと後々聞いたことがある。

当時、私たち姉弟はそういった事は知るよしもなかったが、親が死んで私達は天涯孤独で何となく周囲状況から、やらねばならぬの気持に徐々に変わっていったように思います。

それからの生活は、朝4時頃起きて工場でパンの仕込みを手伝い、生地の成形・加工、焼き上げ、小売店へ配達するための準備そして仕訳後、自転車で配達、終わってから小学校へ通学、学校から帰宅すればすぐ仕事が待ち受けていて、自転車で小売店を廻り、集金とパン箱の回収、持ち帰ったパン箱を洗浄し又、明日の仕込み準備をするなど夜遅くまで働き、当然休日なんかも無くただ無我夢中で働いた。

くたくたになり一日の仕事が終了、夕食はパン箱をお膳にして食べ、食べた物が喉に通らないうちに寝るといった生活が何十年間も続いて行った。

 

1年生の小学校入学時、ランドセル等学用品を買って貰えず、姉が使っていたカバンを持っていかされた記憶がある。

色が赤色であったため同級生から 「女の子見た~い」 と言われ、泣いて帰った事もあり、両親がいないのが判るや 「ててなし子!」 と言われ虐められ、本当に悔しくて、悔しくて、何度も泣い事があった。

母親が亡くなった後、引き取られ先から同じ小学校へ通学するようになり、しばらくして一時期お昼の給食時、弁当を持っていく決まりがあったが、皆はお弁当を作ってもらって持って来て教室の中にあるストーブの上に置き、温かくなったお弁当を食べるのだが、私だけが毎回々前日の売れ残りのパンばかりで、昼前になると教室全体に空腹を誘うような、空しい臭いが”ぷ~ん”として、本当にうらやましく感じたものでした。

 

そして、小学校5~6年頃、虐めは収まらず依然として続いたが、その事よりも、私自身の問題も多かった様に、自分からその輪に入っていこうとせず、事あることに皮肉れて物事を考えるようになって行った事だったが、

しかし、あるきっかけで吹っ切れたと言うか、今から思えば私にとって、それが大きな 転換期 だったと思う。

それは、私がいつも泣いて帰るのを見て、母親の弟(叔父)が、「泣いて帰って来るのであれば、泣かして帰って来い!」 と、叱られたのか、”ゲキ”を入れられたのか覚えていないが、確かにその言葉から、何くそ!と奮起したのか、このままでは駄目だ・・と思ったのは事実である。

 

それからが人間が変わったように、気が楽になったと言うか、怖い物がなくなったのか、それとも開き直りなのか判らないが、強くなっていく自分の変わり様に、驚きさえ感じるようになっていった。

喧嘩で、相手の親から苦情がくる程、西村に逆らえば怖いというイメージを植え付けていったのであるが、中学校に入る否や不良グループからの誘惑が頻繁に来て、一時は俺にはもう、失うものがないんだと言う気持になって、その方向に傾きかけたが、家に帰り現実に戻ると俺には、身内がたった一人しかいない姉の存在があった、又学校から帰宅すればすぐ仕事が待っていて、遊んでいる暇が無かったのが功を奏したというか、結局悪い方向には行かなかったのが幸いでした。

 

高校への進学は祖父母が、「せめて忠雄には高校までいかしてやって欲しい」 の願いから、育ての叔母・伯父がOKしてくれ、又理解もあって行けたもので、それには本当に今でも感謝しています。

3年間の高校生活でしたが、その高校でも帰るのが遅いと伯父が呼びに来るほど、仕事が主で勉強が副業という程、過酷な日々が続いていった。

 

高校生活の中での思いでは、ここでは言い表せない程いっぱいあるが、ちょうど映画では 「石原裕次郎」 が流行っていた頃で、私には家に帰ってから映画を見に行けないので、授業を抜け出し友達と、四条 新京極あたりの映画館に行ったもんです。

それが唯一の楽しみだったかなあ~、それと中学時代の喧嘩大将を受け継ぎ、高校でも常に約10人程の同級生を引きずれ 「やんちゃ」 したが、現在のような陰険な虐めとか悪事を働いた事はなく、もっぱら弱いもん虐めする奴は絶対許せないことから、悪ガキや不良グループには向かって行ったものでした。

 

パンの製造業も順調に伸び、従業員も増え扱う品種もパン類の他、洋菓子も製造・販売する事になり増々忙しくなって、自転車(運搬車)ではさばききれない程の商いになり、バタコ(自動三輪車)が導入されたが当時私が15歳で、免許取得制限が16歳のため運転する事が出来なかったが、無免許で約1年程運転を続け16歳になるやいなや受験を約千円程でパス、そして引き続き
自動四輪車(現在の普通車)も千円程と、現在では考えられない安さ・早さで取得が出来たのである。

そして一段として忙しくなり、今まで以上に寝る時間も少なくなっていったのですがそんな折り、一生涯の中で思わぬ大事件が起こりました。

それは、従業員が仕事を終わり工場内で作業着を洗濯するため、お湯を沸かしていたのは良かったのですが、お湯を沸かしているのを忘れて、出ていった事から火事が発生、工場から離れた所に居た私は、火事や!の声で工場の方にいったが既に遅し火の海で、2台あった車の内1台を出すのが精一杯でした。

非常に大きい火事で京都新聞に大きく取り上げられ、12所帯約7軒の大惨事となった事です。忘れもしない3月30日の出来事でした。

私が高校を卒業して暫くの出来事で、工場の復旧には当然相当な費用も時間も必要となり、私は一時、別の母親の妹(叔母・伯父)が経営している運送会社でお世話になることになった。

そこには5人の従兄弟達がいて、兄弟のように良くしてくれたが何せ、仕事がなれない運送業で例えば梅小路で貨物列車が到着すると、荷物(綿布とか冷蔵庫等)をトラックに積み込むため、肩で担ぎ運ぶつまり貨物船の荷下ろし作業員みたいな物で、相当な力が必要で慣れない私には過酷な作業でした。

夏には60~70㎏ほどの綿布を担ぎ、一番嫌だったのは汗が滝のように流れる所に「ダニ」 が付着して全身がみみず腫れになった事もあった。

 

約1年ほどして工場の再開に漕ぎ着けたが、1年のブランクは商売にとって非常に大きいもので、当時は同業の大手企業(名古屋のフジパン、大阪の敷島パン、神戸屋)が、京都進出する中で地元の同業他社(進々堂、西湖堂、ヤマイチ等々)が、製粉会社と資本提携するなど或いは、中小の業者がフライチャーズ方式を模索するなど、京都のパン業界に一つの転機が押し寄せていたのです。

その頃から伯父・叔母が主張する昔からのやり方と、私が考えていた例えば、パンの包装紙についてももっと近代的にすべきとの意見が分かれ、伯父と度々衝突するようになっていったと記憶している。

昭和40年に入り、共に苦労して支え合ってきた姉が結婚する事となり、何れ覚悟は決めていたがいざ、その日が来たときは何故か今まで泣くことを忘れていたのに、思いっきり泣いた記憶がある。

この世にひとりぼっちで、取り残された気分だったのであろう・・朝まで泣いた様に思う。

親父(伯父)との意見対立はその後も続き、このままではこの家には居られない、将来のある仕事をしたいと思い始めたのは、姉の結婚がきっかけで自分も結婚しようと、そして自由になりたいと思い始め、私も昭和42年(1967)1月、結婚、24歳の頃でした。

所が結婚したものの新婚生活も悲惨な状況で、アパートの家賃を支払えれば、残りの収入ではまともに生活出来るようなものではなく、何度か給与の事で掛け合ったが聞き入れて貰えず、このままでは駄目だと判断し、姉たちの反対を押し切り、辞める事を決断した。

生まれてからこの時期まで、運不運もあったが常に定まった枠の中に自分が居て、そこから抜け出そうと思ってもなかなか出来なかったが、切羽詰まった状況の中、かなりの勇気もいったが家内の協力があって実行する事が出来た。昭和42年(1967)4月だった。

そして、昭和42年(1967)5月、家計を支える目的がまず先決で、早急な収入をえるにはタクシーしかないと判断、即座に自動車の普通二種免許を取得し、相合タクシーに入社、そこでじっくり自分の将来を見つめ直し、そして方向を決めて一から出直す気持でやっていこうと自分自身に誓った。

家内の姉夫婦が冷凍機店を営んでいた事がきっかけで、将来性のある仕事として冷凍・冷蔵関係に絞り込み、その為の手段として先ず国家試験を取ろうと決め、タクシーの仕事のかたわら、家に帰ってはとにかくがむしゃらに、必死に勉強した事が思い出されます。

その成果があって複数の国家試験免許を取ることが出来た。これは自分の努力だけで出来たのではなく、一つの目標に向かっての決意と、そして家内の協力があってのものと今でも思っている。

しかしそれは一つの出発点しかなく、既に私も25歳で将来性のある会社へ再就職するには年齢面でそう簡単でない事位は認識していて、従って、経験者としていくには実践が必要であると考え、その実績を積むため、家内の姉夫婦に無理をお願いして昭和43年(1968)5月より一定期間技術習得のため修行として働かせて貰う事になった。

このように従来の仕事を辞る決断をしてから、廻り人達の協力も含めやっと、自分の将来に希望を持ち始めた第一歩でもありました。私が25歳の時。

昭和43年(1968)12月、新聞の求人募集で冷凍・冷蔵関係に絞り込み探していた所へ「空調」の語字が目に付いた。

もともと冷凍・冷蔵と、空調は理論的に一緒でしかも募集会社が当時は一流企業の三洋電機だったので、すぐさま応募・面接と、思った程楽に、トントン拍子で入社する事が出来た。

人生25年目にしてやっと、暗いトンネルを抜け出し、明るい希望に満ちた時期であったように思います。

<第二 人生期>

昭和44年(1969)1月6日、初出勤、ここから希望に満ちた私の第二の人生が始まりました。

サラリーマンとしての会社務めは、もちろん始めてで、不安・戸惑い・期待等々、数え切れない程の場面・出来事がありましたが、しかし総じて困難或いは苦しいものでは無かったように思いだされます。

むしろ、自分で語るのは奥がましいが、常に前向きで積極的で他社員にない意欲の持ち主であると上司から評価され誉められた事もありました。

自分は自分の事を評価出来るほど当時は、そんな余裕は無かったが、今から考えれば多分、昔に培った (つちかった) 何くそ!の精神・体力から、常に前向きつまり、[これ以上なくす物は何もない]、ゼロ出発なんだ!という潜在的な心の誓いが、そのようにさせたのではないかと思っています。

昭和44年(1969)5月、男の子が誕生し、家庭の中にも明るさが加わり、父親としての存在を実感する日々が続いて行った。

当時は言い訳じゃないが、私が発展途上の身で充分に良い父親としての役目を果たせなかったがその分、母親が一生懸命に家庭を守ってくれた事が何よりの幸いでした。

その為に安心の中で、私は仕事に集中できたのではなかったと思います。

仕事は空調、つまり冷暖機特に業務機器の設計施工又、スーパーなどのコールドチェーン、わかりやすく言うとスーパーショーケース機器の設計・施工とか、ビルの空調工事で、作業は当然下請け業者にしていただくのですが、大規模な現場についてはゼネコンつまり、受注先である大手の建築業者の指示のもと行って行かねばならないならぬ、打ち合わせを称してお酒を飲む機会が増えていった。

私がお酒を覚えだしたのはこの時期だったように思う。現場担当者とのコミニケーションが目的の時もあれば、工区の完成或いは竣工祝い、接待など様々だがあらゆる場面でお酒は私にとって、切っても切れない関係となっていったのです。

酒での失敗も沢山あり、他人に迷惑を掛けた事も数多くあった。

例えば、ある現場での竣工祝いの打ち上げがあった時、呑みに行った先のバーで若い私が集中して呑まされ、よくある事だが一気々・・・と、奨められ、本当はそれ以上呑むのは自分でも限界を感じていたのだが、ホステス及び周囲にいた現場仲間達から、[こんなもの呑めないのか、根生がない!] など、呑んだ席でのお遊びであると判っていたが、もともと、負けん気の強い私でしたのでそれは、自分にすれば非常に屈辱的な言葉で、[何にい~こんなもん呑んでやるわ!] とコップ一杯に次がれたストレートのウイスキーを一気に呑んだのである。

結果は分かっていた。

その後会社の同僚が迎えに来て自宅に送ってもらったが私は呑んだ後の事は全く覚えていず、家内・同僚にかなり迷惑を掛けてしまった。

 

昭和46年(1971)7月、長女が誕生した。現在の産婦人医学では生まれる前に男女の判別が出来るが当時はそれ程進歩していなかったため、生まれるまで判らず、女の子が産まれたと聞いた時は飛び上がる程喜んだものです。血を分けた子が二人になり言葉に表せない希望と、責任が交叉する様な感じを覚えた日でもありました。

昭和47年(1972) 田中内閣の「日本列島改造論」で、日本の経済も右肩上がりが続き、私も仕事に慣れ順調に推移した中で、生活も長女が誕生するなど収入も増え、やっと明るい兆しが見え始めて来た頃、過去私が何が何でも心の中で、これだけは成し遂げたいと言う誓いがあった。それは自分の住む家が欲しい、そして両親・姉達のお墓を是非作りたいと言う、長男としての使命はもとより、人に頼らず・・・・・と言うか、私の心の中で「意地」というものがあった。

お箸1本から始めた新婚時代、良い意味で人に見返してやりたい気持があったのかも知れません。

そして誓い通り、お墓・自宅購入、もちろんローンでの返済で、まがり乍ら達成する事が出来た。

返済計画でかなり無理したため、日常の生活面で家族には大変苦労さしたが、その苦労の甲斐があって完遂する事できた。

昭和50年代に入り増す々会社の業績も、日本経済と同じく右肩あがりで順調に推移していった。

もっぱら私は会社の仕事に全精力を注いでいた事から、家庭を顧みず家内には子育てを含み本当に苦労させた感はあったが、その分仕事に集中できたと思う。そのお陰があってか学歴のない私が、周囲は大学卒の連中のなかで順調に昇進も出来、社員が18人いる京都の責任者として君臨する事が出来たのである。

その後も当時の社長に認められ、本社勤務を招請され重要な部署の責任者として迎えられた事もあった。

大阪 (吹田 江坂) 勤務となり連日帰宅が夜遅く、かなりきつかった。会社の1フロアーには約50名程の社員がいて、我々のように団塊世代もいれば若い新入生達や、サラリーマンにドッポリ浸かった人達、様々で、野生の様に育ってきた私には、あまり馴染めない雰囲気でもあった。

赤信号、みんなで渡れば怖くないといった感じかなあ~、

特に [イエス・ノー] がはっきり言えない人が多いのには驚いた。

よく言う [湯でがえる] つまり、カエルは水の中に居るが、お湯の中に入れると飛び上がり出てくる。

しかし、水の中から徐々に温めていくと死んでいくといった事の例えですが、そういった風潮が蔓延しているように感じたのでした。

どちらかと言うと私の考えは革新的で、体に染みついた [俺はゼロ出発や!失うものは何もない] の様に怖いものは何もないと言う考えで、エリート育ちで、すなわちイエスマンたる社員には厳しく指導した。

そんな自分に同調する幹部もあったが、避けて通る人も少なく無かったように感じていました。

厳しい指導は私の多少、ひがみの部分もあったが又反面、会社社会の中では私のような革新的な考えは通らない位充分に解っていたが、それでも自分の気性又は考え方を変えることなく、初志貫徹し、実績も人に劣らず業績の達成を続けてきた事に今でも満足している。

そんな中で平成15年(2003)11月、34年間の勤務を終え定年退職する事になりました。

戦後日本は高度成長を続け、世界における経済大国となったがそれは、第二次太平洋戦争で敗戦後我々の先輩或いは私ども団塊世代が、決死の努力の甲斐があって復興出来た事は言うまでもないが、当時の三洋電機に於いても戦後着々と、売り上げ額で一兆円から二兆円を越える伸長を続けてきて、特に我々が担当する業務用機器といった、空調機器他スーパーの冷蔵ショーケースなどは、地味ながら成長を続け三洋全体の中で、無くてはならない存在となっていたのは事実で、所が、定年後見ているとその間、新潟の震災もあったが、半導体はじめ冷蔵庫、洗濯機などの白物家電事業の不振が続き、撤退および売却など深刻な経営危機状態になっている事は非常に残念に思っている。

ただ今思う事は、在職時私が絶えず唱え続けてきた、いわゆる、[湯でがえる] [イエスマン] に浸かった状態で、赤信号、みんなで渡れば怖い、といった危機感に気付かなかった事が大きな要因でないかと思っています。

人の生き方も含め、成長し続ける事はありえない事で、失敗・反省の繰り返しでよりよい方向に向かって昇っていくものだが、失敗を失敗と気付かなければ発展はありえない。

私の人生の中での三洋電機の存在は非常に大きいものがあった。そのためにも早い復興を願っている。

長い会社生活を終え、しみじみと今感じる事は、私にとっては不運にも判らずして、迎えた苦難の道である第一人生期の暗いトンネルの時代から、第二人生期のように結果として苦難を乗り越えられた.、一生の中の半世紀時代を終え、自分の今は、[昔があったからこそ今があるんだ] と、改めて感じられた事、そして{楽は苦の種 苦は楽の種}の通り、昔の苦労は私にとって、決して無駄でなかったと、感じたことで苦労する事は人によって事情は色々あるが、人の人生の中では、後でするか先にするかも、まちまちで人それぞれに一概には言えないが、苦労をしようと思って苦労する人はあまりいない。

結果として、それが私にとって ”苦労” だったんだ、それを乗り越えてきたんだという事を実感をしています。

それは、[親が居なくても子は育つ] じゃないが、こうして強くたくましく生き延びられたのも、決して自分だけの努力ではなく、親戚はじめ多くの周囲の人達に恵まれ又、助けられた事が、第二の人生を全う出来たものと率直に感謝しています。

<第三 人生期>

光陰(こういん)矢のごとしで、月日が過ぎるのは非常に速いこと、私も今年平成19年11月で65歳になりました。

第一から第二人生のいわば、波瀾万丈期、変化に富んだ時代であったが、こうして34年間の勤務を終え定年退職、そして第三の人生のスタート台に立った率直な感想は、多くの先輩達が通ってきた道、即ち私にとっては、これからの人生は未知の世界であるが最後の人生でもある。

従って、”後悔先に立たず”ではないが、悔いのない人生つまり、人間味のある人間らしく正直な生き方をしたい、そして家庭を愛し又、人との交流の中で親しみを覚え・育て、ごく普通の人間として生きていけたらいいなあ~と思っています。

健康面は [病気] という言葉を忘れる位、大きな病気を患った事なく健康であることに幸せを感じています。

授かった健康に感謝はもとより、家族も大きな災いもなく、更なる感謝!感謝!の毎日でございます。

ただ、煙草の吸いすぎ、お酒の飲み過ぎは、廻りからの忠告があるが止められない意志の弱さを持っています。

本当に早いもので、今年6月に娘の2人目の子が誕生して長男の子、2人含め4人の孫を持つに至りました。

現在は2人の子、3人の孫達に囲まれ幸せな日々を過ごしていますが、7~8年前息子が離婚をして、息子の次女の孫は母親に引き取られ、居なくなったのが、私の人生の中で最大の不幸がここに集中していたように、何より悲しい出来事でもありました。

そのようになった理由はあまりにも多くあり、語り尽くせずここでは深く触れないでおきますが、ただなにより、私と同じような境遇にさせたくない思いは、人より私が一番判っているだけに強く又残念でならなかった。

 

当時悲しい思いをした長女も既に今年6年生になり、私どもの元で元気に育っているのが何よりの救いであると喜んでいます。

息子に於いては、最近少し落ち着いて来ているように感じていますが、でもまだ現在でも、[転(ころ)がる石に苔(こけ)は生えず] 、川の中の石ころが急流に流され一向に水ゴケが生えないの意味で、つまり、解りやすく言うと、仕事においても未だ定着できず又、子供或いは自分の将来を見据えた生活基盤が確立されていないのが現状です。

しかし、このようになったのは私にも責任の一端はあるが、どちらかといえば私は [何くそ!の精神] つまり、人に負けるな!という事から、長男にはかなり厳しくやってきた。

一方母親はどうかというと私とは全く正反対でこどもの言うことは何でも聞いてやるような性格で優しく、息子に取ってはそれが救いの神であったように思う。

当時は私の生き様をあまりにも子供に押しつけ、言い方を変えれば自分に出来なかった事を、子供特に、長男に託した面もあったように思う。

親のエゴと言いますか、最近はよくこの様な事で、社会問題になっているが、他人の事は案外冷静に見られるが、自分のことには全く気が付かない、私みたいな?

馬鹿な親も居るようです。今はただ早く落ち着いてくれることを祈るばかりです。

娘は 私が長男に対する厳しい養育を側で見て育ったのか、長男と違い根気強いのが特徴です。

現在は2男の母親、良い旦那さんに恵まれ幸せな生活を送っていますが、今年の6月に二男が誕生してそして現在幼稚園に通っている11月で5歳の長男とで、子育てに何かと忙しく最近は家内の手を借りる日々が多くなり私はその分、孫の顔を見られる事が増え喜んでいます。

しかし、最近の長男は成長が著しく幼稚園で覚えてきた、わんぱくな遊び例えば、私に廻し蹴りとかをするなど多少手に負えなくなってきて、帰ればやれやれと思うが、しばらく娘から電話が来ないときは”どうかしたのか?”と心配で、こちらから電話する事があり、待っている自分が可笑しく思う時がある。

子供の成長は本当に早いもので、約5ケ月の子も最近は寝返りをするなど、私の顔を見て笑うようになり、5歳の長男は、ひらがな初め最近はカタカナも読めるようになり、日替わりに成長する孫を見るのが楽しいです。

母親も愚痴を言いながら娘のマンションへ行くなど、何か自分から進んで、喜んで行っている様です。

目的はやはり、爺婆とも孫です。そんな孫達の成長を楽しみに生きがいを感じている現在です。

定年後は、日々の生活の中で趣味である「鮎釣り」を中心に、マージャン、カラオケ、お酒といった遊び事と、最近は手作りのホームページを作るなど多彩な毎日を過ごしています。

特に鮎釣りに関しては約50年以上続けていて、毎年義兄一緒に行く事が私の何よりの楽しみです。

ただ最近は、足腰が弱くなり昔のように川を飛び歩くような事が出来ず、又意欲も衰退して行き寂しくも感じていますが、釣った魚を喜んで食べて、”美味しかったよ!”と聞くと、辛いのを忘れて行ってしまいます。

釣りの漁法は近年には珍しく{素掛け釣り}と言いまして、引っかけ共コロガシとも呼ばれていますが、これは関西特に京滋地方で使われている呼び名です。

その{素掛け釣り」をちょっと触れておきます。

”素掛け”の名の通り、エサを付けず釣り上げる釣り方で、約15年前までは盛んに行われて きたが、釣り人が増えるに従いそのマナーの悪さと又、川の環境を害するという理由で 最近はほとんどの川で素掛け釣りを規制化している。

規制の目的は環境問題にも一部の理由としてあげられるが、それよりも大きな問題は、放流用の稚アユを購入して商業目的としている河川(漁業組合)は、素掛け釣りでは、 採算ベースに乗らない。

それに変わり登場してきたのが、≪友釣り≫漁法で、鮎は石を中心に約1㎡の縄張りを作り、そこへ他の鮎が侵入すると、猛然と体当たり又は噛み ついてでも侵入者を追い出そうとします。

そういった本能を利用して釣るのが”友釣り”で、オトリアユ等で魚を寄せて釣る方法、つまり魚まかせ≪相手まかせ≫の漁法です。

一方私が一貫してやってきた漁法(素掛けつり)は、他の漁法と違い見えない川の中で 何処に魚がいるかを見分け、釣りに行くと言う≪攻め≫の漁法です。

従って、私の性格・気性は、友釣りのような<待って釣る>、つまり、相手任せ・魚任せの釣りよりも<攻めて釣る>漁法が似合っているのかも知れません。

マージャンは、同じメンバーで約35年も続けているが、どうも私は勝負毎には得意でなくいつも負け頭、それでもやり続けるには意味があり、会社勤務時と違いお互いに、利害が伴わない事が何よりのストレス解消法で毎回気楽にワイワイと言いながら楽しくやっています。

世間ではよく、マージャンは ”ボケ防止” には良い、と言われますが、私は負け惜しみじゃないですが、そんなつもりでマージャンをやっているのではなく、むしろ、気心を知った連中と食事を挟んで呑んだり、騒いだりするのが何よりの楽しみとしています。

そして、カラオケは、歌は人の心を慰めて、また人の心に感動を与え又、自身の健康面でも大変良いと言われていて、お酒を呑みながら積極的にカラオケで歌を唄っていますが、人に感動を与える程の域に達していないのが難です。

いまさら歌手を目指している訳でもなく、今後も楽しくストレス解消の場、そしてふれあいの場として続けていきます。

更に人との出会いは・・・・・私の好きな言葉、”くよくよするな、山より大きい熊がで~へん”の次に一期一会 [いちごいちえ] つまり一期は、生まれてから死ぬまでの人の一生を表し、一会は一度だけの出会い。

その言葉が好きで、人とのふれあいの中で常に意識して接するように努めています。